武川蔓緒(つる緒)の頁

みじかい小説を書きます。音楽や映画の感想つぶやきます。たまに唄います。成分の80%は昭和です。

Jasmine『オブリヴィオン』(平26)

ピアノ小場真由美さん、コントラバス中村仁美さんによるデュオJasmineの2nd。二人のオリジナル曲をはじめ独自の調理によるスタンダードジャズ、フュージョン(ジョー・サンプル)、クラシック、ポップス(ビートルズ等)が並ぶ。

ゲストミュージシャンにパーカッション宮本香緒理さん、サックス水谷浩子さん、ボーカル石田裕子さんが参加。前作と同様女性のみの編成であるが、聴けばやはり前作同様、これ見よがしな女っぽさを匂わす訳でもがむしゃらに雄々しく振る舞うでもなく。彼女達のプレイはもはや人間などという窮屈な肉体の域も破った、国境もなく高度も恐れず自由に漂う音楽という仮の名を持った空気であり風なのだ。

私事だが精神的にかなりやさぐれて音楽さえも聴きたくない時期に敢えてこの盤を初めて聴いてみた。負のループから僅かでも抜け出せそうに思えて。
…しかし、思惑は見事にはずれる。いや、セコい悩みは阿呆らしくなって軽くなるのだけれど、そのかわりに、全く違ったものが音から襲ってくる。

ジャスミンは音本体と同じぐらいに余韻や余白を重視したデュオ(またはゲストを加えた編成)であると思う。だから存在が「空気」または「風」の振動、或いは静寂なのだ。前作より更に研ぎ澄まされたように思うその有り様は、聴いている側をフワリと心地よく浮かせもすれば、つむじ風にも巻かせたり、上空で突如風を止め絶叫マシンよろしく地面すれすれまで落とすスリルも与える。 悪戯されている訳ではない。彼女達は只風であるだけで、聴き手の私はそれに乗る、たとえば落ちこぼれかけた渡り鳥のようなもの。
鳥は飛ぶ自由、美醜さまざまな景色、仲間とおぼしき面々との強い絆脆い絆、常に隣り合わせにある死そして新たなる生を、純然たる真実として風から教わる。

ギミックの複雑な曲と比較的明瞭な曲が半々ぐらいにまざっているのも理由は簡単、「この世界には両方あるから」だ。そしてジャスミンの場合、どちらを奏でるとしても云いたいテーマがそうブレる事がない。「世界はシビアで優しい」というのが一貫していて、すべてが老若問わず響き眠らせない子守唄だ。

私は今回精神状態ゆえなのかわからないが、素朴なナンバーの方が胸に刺さった。石田さんが唄う"La La Lu"(ペギー・リー)は母性あふれる優しさだけれど、改訂された童話みたいにはぐらかさず「本当の意味で抗えない宿命が誰にもある」と、凛とした眼差しで告げる事を忘れない。
それとラストの二人だけでの"My Way"、フランク・シナトラはじめあらゆるアーティストで演りつくされた曲だが、これほどに呆気無く無風状態で終るバージョン(時間は3分ちょっと)が他にあるだろうか? シナトラぽく豪勢に演るよりもある種人生をリアルに象徴するようで、終った瞬間は背筋が凍った。

(※アマゾンでも売っていると思いますが発売元「おーらいレコード」さんで検索するのが確実かと)


©️2019TSURUOMUKAWA

satoko“Oneness”(平17)

<自然体で大胆なフットワークで国境を越え、突き詰められた繊細な世界観で唄を紡いでゆく、活動の場は主にジャズクラブでありつつも、カテゴライズ(「歌手」という言葉でさえ)が無意味に思える人。
2ndアルバムは全編ピアノ牧知恵子さんとデュオ。既成のジャズナンバーとオリジナル楽曲を半々に>

驚いた。

発売前にライヴで収録曲をいくつか聴いていたが、盤から薫る空気は始まりから、異なる。
声がとても乾いているのだ。喉がどうとかでなく、歌手なら大概誰しもエコー等の声化粧をするもの(彼女の1stでもそれはしている)だが、ここでは極力排され、単に掠れとか言うより、内面の生傷か痣の如き部分迄もがやや自虐的に? 映って見える。

さりとて、彼女のもつ包容力は損なわれない。一声で喚起させる景色は、広大。だがそれは乾き・渇きを伴った風景だ。遺跡或いは砂漠へと近づきつつある、かつては息づいていた木々や建築や人々の残像が何らかの理由で時を止められた町並の陰影を思わせる。…そこに牧知恵子さんのピアノが、町の中枢にある石畳の広場に清水を湧かせ、円い水鏡を生む。広がりゆく鏡に鮮明に映るは頽廃薫る化石の町ではない。総てが何事も無かった風に艶めき、葉がそよぎ花弁が舞い子供は笑みながら駆け大人は優雅にまたはだらしなく歩き、どこかでの機織りや汽笛や鐘の音が響く好天の光景…

それでは声が陰でピアノが陽なのか?と言えば、そんな単純な話じゃ、ない。喩えるなら巧妙な二人芝居のようなものだ。役者AとB二人きりの舞台とはたいてい立場や性質を大なり小なり異にする者同士が組むものだが、そんなキャラ設定は表層の飾りや色づけのようなものだ。物語を鑑賞し続けるうち、だんだん舞台上の陰・陽、実像・鏡像、豊潤・空虚の境界は朧になってゆき…最終的に消える。互いを補完すると言うより、「Aの中にもBはいたのだ」なんて台詞もたまに聞かれるように、テクスチャーの違って見えた二人共が実は総てを偏りなく内包した一つの真実だったと、“Oneness”という題のもと、気づかされるのだ(デュオ形態の音楽は好きで山ほど聴いているのに今更そんな側面を思うとは妙なもの)。

satokoさんの創る音楽は出会った時から「禁欲的」と感じてきたが今作はどちらかと言えば人を描きつつもボタニカルな境地に居る印象。我が無い訳でなく、植物にも熱い躍動と官能があり、シビアな滅びと枯淡の美がある。レコーディングだからこそ顕せた今作の己の傷迄さらけ出すような素の声は、植物の宿命や星の軌道にも似たものをひりひりと痛く且つふんわりと優しく、ライヴ会場とは又違う聴く人各々のパーソナルな場で心の鼓膜に響かせる、音楽のアルバムならではの役割を全うしたアルバムとなったのではないだろうか。

さて“Oneness”ながら曲は無難な範疇に収まらず、益々彼女らしく挑戦的で頼もしい。私的にはヤコブ・カールソンのシュールなナンバーに万葉集ベースの日本語詞を重ねた『東の彼方へ』(原題は“Seasons Of The Heart”)が最も好みだが、フォークを弾き語る矢野顕子を彷彿とさせる現代詩調のオリジナル『一日の終わり』や、どちらかと言えば北のイメージの彼女が沖縄方言に挑んだ『オオゴマダラの森』なども見知らぬ新鮮な景色でいて、とてもノスタルジック。

ホームページはこちら。
http://www.satomoon.com/
アマゾンでもたぶん買えます。


©️2019TSURUOMUKAWA

アルベルト田中"FANTASIA"(平26)

シャンソン、クラシック、更にはロック…と、幅広いジャンルで国内外問わずライヴやレコーディングに参加、更には演奏でなく役者として朗読劇もされているという多才で謎めいたピアニスト、アルベルト田中氏'14年リリースのリーダーアルバム。

何がいちばん謎めいてるって、現役選手でありながら当人サイドからの情報発信がほぼ皆無なところで(笑)。現在シャンソンライヴでの伴奏が直のパフォーマンスに触れるには最も近道かと(ユーチューブにも幾つか置かれている様子)。

ときにシャンソンのライヴというのは、ホール等で行われるものは兎も角バーやサロンでは基本的に「歌手+ピアノ」という少数編成が多い。一人ミュージカル、または静かなモノローグか独白のようでもある歌手の感情の満ち引きに寄り添うには、ピアノは本当に素晴しきパートナーたる楽器と思う。縁の下の力持ちでありつつ、激情からひとひらの機微に迄対応が出来る。勿論そんなある種多重人格のようなプレイをするのは並大抵の事ではない。アルベルト氏のピアノにもまた、歌い手を海原に泳がせるかのような壮大さと、人知れぬ涙にも呼応する繊細さとがある。どんなズームも望遠も自在に操り美麗に撮る辣腕のカメラマンみたいに。

さてそんなアルベルト氏のリーダーアルバム。こちらは対照的にストリングスを始めとするクラシカルなメンバーにギター・ベース・パーカッションを加えた計14人編成。
選曲はクラシックからミュージカル、映画音楽やテレビの歌迄。やはりヨーロッパが多めではあるがアメリカや、我らがジャパン『難破船』もあり。ムードにおいても映画『小さな恋のメロディ』挿入歌『若葉のころ』があると思えば『怪僧ラスプーチン』なる、実在したロシア帝国時代の人物をモチーフとした70年代ディスコナンバー…などという面妖なものもあり、興味をそそる錯綜ぶり。どうまとめるのか? 予測のつかぬままに聴いた。

……真摯。素直。豊潤。清楚。

ちょっぴり意外な言葉もまざる鑑賞後の率直な感想。選曲のごった煮を感じさせない、喫茶店で小さくかけていても空気を乱すことは無かろう滑らかな流れ。一歩間違えばJポップを無理矢理インストにした有線みたいになりそうな崖っ淵で、演奏の肉厚ぶりと、聴き手を不安に陥れない優しい両腕の感触とを終始貫いている。
そう、面白いのは悲しいテーマの演目においてでも、絶望や情念といった負の感情をある一定値以上に湧かせないところだ(『難破船』についてライナーで「ちょっとダーク過ぎるアレンジに」と書かれているがいやいや明菜オリジナルの方が十倍悲痛ですから)。
すべての曲に例外なくあるのはどんな時に聴いても秋のような実りの豊かさと、程好い切なさ。

シャンソンというジャンルを改めて考えてみると、悲劇音楽の代表格みたいに捉えられがちだが、少なくとも曲に関してはコード進行やメロが存外に純朴でこざっぱりしたものが多い。パリの民衆の自然な服の着こなしと似た風情で。
アルベルト氏の姿勢もそこに近いのではないだろうか。纏うのは悲劇そのものではなく飽くまでショーとしての悲劇(とか喜劇とか)で、素材(即ち14人の楽団)本来の質の良さを最優先させ、無闇に尖らず軽薄にもならず、大衆に媚びず寧ろ大衆と楽しみを「こんなのどう?」と分かち合う感じ。
折角リーダーなのだからもっと「俺だ!」とばかりに扮装ばりに化けるなりピアノの弦がブチ切れるほど悪ふざけしたって…と私のようなタイプは思うが、ここでもシャンソンライヴでの歌手とのパートナーシップ同様か、あるいは更に二歩三歩さがったところで13人のメンバーに寄り添い、溶け込む。
そのブレの無さはそのまま本人の御人柄に繋がると思う。泰然自若。声高に己をアピールせずとも人は彼を信頼し集い、スケジュール帳を埋めてゆくのである。

…とは言うものの。彼にはまだあと数枚リーダー盤があるそうなので、油断はならない。謎は続く。


©️2019TSURUOMUKAWA

橋本一子&橋本眞由己ライヴ(平21)

(平成21年10月16日のライヴの感想)

ジャズバーにて、橋本一子さん、橋本眞由己さんのライヴ。 一部が一子さんのソロピアノ&唄、二部が眞由己さんの唄と一子さんとのデュオ。

テーブル席が並ぶ中、グランドピアノの背後をカッコで括る風なカウンターがあり、そこに独り座る。やがて現れた一子さん。斜め後ろから見るお姿はとてもか細い。

しかし、細い指が、鍵盤の一本一本を染めてゆく。果てにはピアノを、店本体を。

彼女のライヴは初めてだったが、驚いたのは録音物と感触が変らないこと。迫力ないという意味でなく。
レコーディングで可能なことと、不可能なこと、ライヴだから出来る事、やれない事というのが環境上あるし、まして私の聴いた録音物はシンセの打ち込みとかも多いから、ギャップがあって不思議でないのだが、一子さんには、ほとんど感じない。

音楽を弾く、唄うというよりも、染色をしている、と思う。楽器や楽曲や媒体や場所の境界なく、彼女の色がある。質の落ちない染物を広げてくれる。
それは勿論簡単ではないだろう。鍛錬はもとより、境界線のない音楽を世に通す為に、境界線を守る人達からの拒絶や非難も受け止めなくてはならなかったろう。それらを越え。
こちら斜め後ろで、身が引き締まる思いと、解きほぐされる思いがした。

眞由己さん、これまたか細い方だが、どこの洞窟から出てるのかと思う声の深い響き、それでいて損なわれない繊細な模様。やはり染物か。
特に和風の楽曲(昔の子守唄『ねんねこしゃっしゃりませ』と、一子さん作の“KITUNE”)での研ぎ澄まされ方が凄かった。


©️2019TSURUOMUKAWA