武川蔓緒(つる緒)の頁

みじかい小説を書きます。音楽や映画の感想つぶやきます。たまに唄います。成分の80%は昭和です。

satoko“Oneness”(平17)

<自然体で大胆なフットワークで国境を越え、突き詰められた繊細な世界観で唄を紡いでゆく、活動の場は主にジャズクラブでありつつも、カテゴライズ(「歌手」という言葉でさえ)が無意味に思える人。
2ndアルバムは全編ピアノ牧知恵子さんとデュオ。既成のジャズナンバーとオリジナル楽曲を半々に>

驚いた。

発売前にライヴで収録曲をいくつか聴いていたが、盤から薫る空気は始まりから、異なる。
声がとても乾いているのだ。喉がどうとかでなく、歌手なら大概誰しもエコー等の声化粧をするもの(彼女の1stでもそれはしている)だが、ここでは極力排され、単に掠れとか言うより、内面の生傷か痣の如き部分迄もがやや自虐的に? 映って見える。

さりとて、彼女のもつ包容力は損なわれない。一声で喚起させる景色は、広大。だがそれは乾き・渇きを伴った風景だ。遺跡或いは砂漠へと近づきつつある、かつては息づいていた木々や建築や人々の残像が何らかの理由で時を止められた町並の陰影を思わせる。…そこに牧知恵子さんのピアノが、町の中枢にある石畳の広場に清水を湧かせ、円い水鏡を生む。広がりゆく鏡に鮮明に映るは頽廃薫る化石の町ではない。総てが何事も無かった風に艶めき、葉がそよぎ花弁が舞い子供は笑みながら駆け大人は優雅にまたはだらしなく歩き、どこかでの機織りや汽笛や鐘の音が響く好天の光景…

それでは声が陰でピアノが陽なのか?と言えば、そんな単純な話じゃ、ない。喩えるなら巧妙な二人芝居のようなものだ。役者AとB二人きりの舞台とはたいてい立場や性質を大なり小なり異にする者同士が組むものだが、そんなキャラ設定は表層の飾りや色づけのようなものだ。物語を鑑賞し続けるうち、だんだん舞台上の陰・陽、実像・鏡像、豊潤・空虚の境界は朧になってゆき…最終的に消える。互いを補完すると言うより、「Aの中にもBはいたのだ」なんて台詞もたまに聞かれるように、テクスチャーの違って見えた二人共が実は総てを偏りなく内包した一つの真実だったと、“Oneness”という題のもと、気づかされるのだ(デュオ形態の音楽は好きで山ほど聴いているのに今更そんな側面を思うとは妙なもの)。

satokoさんの創る音楽は出会った時から「禁欲的」と感じてきたが今作はどちらかと言えば人を描きつつもボタニカルな境地に居る印象。我が無い訳でなく、植物にも熱い躍動と官能があり、シビアな滅びと枯淡の美がある。レコーディングだからこそ顕せた今作の己の傷迄さらけ出すような素の声は、植物の宿命や星の軌道にも似たものをひりひりと痛く且つふんわりと優しく、ライヴ会場とは又違う聴く人各々のパーソナルな場で心の鼓膜に響かせる、音楽のアルバムならではの役割を全うしたアルバムとなったのではないだろうか。

さて“Oneness”ながら曲は無難な範疇に収まらず、益々彼女らしく挑戦的で頼もしい。私的にはヤコブ・カールソンのシュールなナンバーに万葉集ベースの日本語詞を重ねた『東の彼方へ』(原題は“Seasons Of The Heart”)が最も好みだが、フォークを弾き語る矢野顕子を彷彿とさせる現代詩調のオリジナル『一日の終わり』や、どちらかと言えば北のイメージの彼女が沖縄方言に挑んだ『オオゴマダラの森』なども見知らぬ新鮮な景色でいて、とてもノスタルジック。

ホームページはこちら。
http://www.satomoon.com/
アマゾンでもたぶん買えます。


©️2019TSURUOMUKAWA