武川蔓緒(つる緒)の頁

みじかい小説を書きます。音楽や映画の感想つぶやきます。たまに唄います。成分の80%は昭和です。

私的すたんだーどなんばー<玖>マルタ・アルゲリッチ『ラヴェル:夜のガスパール/ソナチネ/高雅で感傷的なワルツ』(昭49)

f:id:mukawatsuruo:20200714181156j:plain
<ピアノソロ集。'74年ベルリン録音>

「歌声は同じものを一つとして持たない物質」という話を先刻したが。
楽器だって、身体を鳴らす訳ではないけれど、アルゲリッチラヴェルなんて域ともくれば、ピアノを弾く奏でる叩くといった概念を超えた、もはや自然現象とも感じられる。

クラシックの演奏家を思うと私は、なんとなく渡り鳥を連想する。生きる限り、片道4,000~5,000キロとかを、海や空や天敵等に翻弄されつつ往復する、仮に仲間が脱落しても救わない救う術のない(逆も然り)、群でいながら孤独な鳥。本当はそこまでシビアに生きなくたって、安住できる手段もあるだろうに。

そんな不可解さもふくめて、自然現象なのだと思う。ヒトがいつの時代から聴き手の心を動かすプレイをするようになったかは知らぬが、「そこまでしなくたって」という次元は、文明の発達とは必ずしも比例せず、鳥が行くべき彼方を見出だし飛翔したのと同じ、至極シンプルな宿命だったのだろう。

むろん私は彼等と知り合いでも何でもないので、弾き手の苦悩とかを何ら気にかけることなく只「現象」に圧倒されっぱなしでいられる。それって当り前なようで、お幸せですこと、なの、かも。

クラシックを聴きはじめたのは、中学のとき、男の友人がピアノを弾いていたから。民家に於いて初めて見たグランドピアノによる、ムソルグスキー展覧会の絵』の有名な冒頭だとかを、私は床で胡座をかき聴いたというか、震動を感じた。はじめて生で間近で感知したという意味ではあれも、「現象」だったと言えようか?
まぁ実際のところは、それほど大したポテンシャルも音楽への志しも、彼にはなかったのだろうけれど。いつしかピアノを離れ、ふつうの大学に推薦で入り、そこを1年で辞め、やがてどこで何をしてるかも掴めなくなった。

そんな、渡り鳥になれなかった(ならなかった)彼のピアノの影響かわからないし、彼から借りたのはアシュケナージか誰かによるショパン1~2枚だけ?だったけれど。孤独でシビアな渡り鳥の美しさを、知る大きなきっかけとなったのは確かだ。未だにクラシックのCDを選ぶなら選択肢はピアノソロか、なるべく少数の室内楽曲のみ。
このアルゲリッチラヴェルに出会ったのは大学時代だったと思うが、私の中では不動ベスト1の「現象」である。


©️2020TSURUOMUKAWA